王力雄 |
劉燕子訳 |
議論が中国の民族問題になると、漢人*[1]の中でも普遍的価値(自由、民主、人権など)をわきまえている知識人--リベラル派も含む--さえ、少数民族の受難を専制政治の災禍*[2]に帰して、漢人が広範囲にわたって民族的な抑圧に関与したことを認めないという、ありきたりの漢民族中心的な観点を有している。その常套的な論法は、漢人も同様に専制政治の被害者であり、各民族の間には対立や憎悪はなく、一心同体で民主主義を実現すれば、全ての問題は自ずから解決するというものである。
しかし、楊海英(モンゴル名、オーノス・チョクト、日本名、大野旭)教授の著書『墓標なき草原-内モンゴルにおける文化大革命の大虐殺の実録-』は、精緻なフィールド・ワーク、考証、多くの体験者の証言により、モンゴル人が受けた被害は、ただ専制政治によるものだけでなく、おびただしい漢人の民衆が政権と一体になり、モンゴル人へのジェノサイドを行使したことを明らかにしている。
確かに、漢人も専制権力の抑圧を受けていた。文革における漢人の被害を記した文献は大量にあり、証言も同様で、少数民族の苦難より少ないというわけではない。しかし、これをもって漢人が少数民族の迫害に関与したという事実を改変することはできず、また民族的な抑圧の存在を認めない理由にはならない。
今日でも類似した状況を見ることができる。つまり、新疆の漢人*[3]は様々な問題で当局に不満を抱くが、いざ民族問題となると、当局と同盟を結ぶ。それどころか、当局への批判や怨嗟は少数民族に転じ、「押さえ込みが足りないからもっと強硬にしろ」というようになる。新疆生産建設兵団に内地から出稼ぎに来た非正規労働者は、日頃から腐敗した貪官の横暴な搾取に苦しんで、恨みが鬱積している。ひとたび地元当局が少数民族を鎮圧する行動を起こすと、みな激しく興奮し、腕を鳴らし、手ぐすねを引き、勇んで戦いに馳せ参じる。
漢人が少数民族の迫害に関与した事実は、往々にして専制政治にそそのかされ、操られたためだと解釈されている。しかし、楊海英教授は、確かに無学な漢人流民が「貧農下農中農の毛沢東思想宣伝隊」を組織し、「内モンゴル人民党をえぐり出して粛清する」という大義名分でモンゴル人を殺戮したことは、当局が意図的に組織したものだが、しかし個人の責任を逃れることはできないと述べる。漢人農民が様々な方法でモンゴル人を残酷に虐殺したことは、政府が具体的に計画し、一つ一つ指図したのではなく、数多くの関与者が主体的に「新たに創造した」ことを示している。殺人のサディスティックな快感を得る中で、その心魂はデモーニッシュなものと一体化していた。
それを事後になって一切の責任を専制政治に負わせている。これは、中国共産党が文化大革命で犯した罪状を全て「四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)」に押しつけたことと同様である。それは問題の解決ではなく、むしろ真相をカモフラージュしたごまかしである。歴史を反省しなければ、再びそのような状況が到来したときに、同じことを繰り返す。
世故にたけている者は「残酷な歴史を掘り起こして、民族間の恨みを増さなくてもいいじゃないか。傷口はガーゼでおおってふさぐべきで、露出させてはいけない。お互いに前を向き、もう起きてしまった過去は忘れ、和解を実現して未来に進もう」と忠告する。しかし、実際にはそうならない。加害者は被害者が忘れるようにと望むが、被害者は忘れられない。加害者が口を閉ざして真相を語らなければ、その責任を果たし終えることはできない。被害者の赦しと理解は決して得られない。懺悔も反省もない加害者に対して、被害者は和解を受け入れることなどできないのである。
モンゴル人が漢人に抑圧されている問題は依然として存続している。楊海英教授は、文革は終息したが、民族的な抑圧は日増しにひどくなるばかりで、その規模は拡大し、ジェノサイドが深刻化していると指摘する。
二〇一四年、私は自動車で内モンゴル自治区内を数万キロめぐり、全ての盟(盟旗制度で、基層の「旗」の上に位置する)や市を訪れたが、ほとんどどこでもモンゴル人やモンゴル文化は全く見当たらず、まことに憂うべき状況であるお飾りのようなモンゴル風のシンボルがあるくらいで、内地の漢人地域と全く変わりがない。漢人が押し合いへし合いしながら商売に励み、街角では漢人の気配や息づかいが充満している。これほど徹底的なジェノサイドには驚くばかりで、まさに第二の文化大革命を目の当たりにしているようである。それは流血なき殺戮であり、むしろゾッと背筋を凍らせる恐ろしさがある。かつて世界を震撼させた偉大で輝かしいモンゴルは、いずこに行ってしまったのだ? 跡形もなく消え失せてしまった!
歴史上いかなる時期よりも甚だしく、大勢の漢人がモンゴル文化のジェノサイドに荷担している。今日、内モンゴルの漢人はモンゴル人の数倍になり、モンゴル人は総人口の端数のような存在となっている*[4]。。企業はみな漢人が経営し、市場も漢人が取りしきっている。上は党の幹部やビジネスマンから下は出稼ぎ労働者まで、ガス田や鉱山の掘削から草原の開墾まで、どこでも漢人があふれている。内モンゴルの二千万の漢人の背後には、さらに多くの内地の漢人が様々に絡みあっている。内モンゴルは漢人たちの鉱物資源の場であり、穀倉地帯であり、一攫千金のドリームの地であり、レジャーランドでもある。千年に及ぶモンゴルの文化や生活様式を尊重し、愛惜する気持ちなど一かけらもなく、逆に愚昧で時代遅れだと見なし、嘲笑し、蔑視し、発展の名の下で無情に破壊している。
今日、内モンゴルの主体は徹底的に植民地化されている。モンゴル国と国境を接した辺境地域にしか、モンゴル的な風情は残っていない。百年にわたりモンゴル人は漢人に圧迫されて後退し、もはや後のない絶望の淵にまで追いつめられている。このモンゴル人の壊滅的な状況に対して、直接・間接的に協力した漢人は事実上の共犯であり、独裁政権と同様に責任がある。ところが、漢人の中でも自由や民主を唱える者すら、しばしば民族的な災禍をモンゴル人に幸福をもたらすものと見なしている。
今では多くの漢人が中国にはチベット問題や新疆ウイグル問題があることに気づき始めたが、内モンゴル問題はまだ認識されていない。二〇一一年五月、内モンゴル自治区北東部の西ウジムチン(烏珠穆沁)旗の遊牧民、メルゲン(莫日根)は、炭鉱開発業者による環境破壊から牧場を守ろうとしたが、漢人は故意に会社の車で轢き殺した。これに対して、内モンゴルの多くの地域で抗議活動が広がった。確かに当局に抑え込まれたが、しかし、長年鬱積していたモンゴル人の怒りに火がついたのである。いつの日か、モンゴル問題はチベット問題や新疆ウイグル問題と同じように全面的に爆発するだろう。
メルゲン事件の三年後、私は彼が死んだ西ウジムチン旗を訪れた。草原には巨大な採掘場が広がっていた。鉱物を積載した大型トラックが蟻のように行き来し、鉱石の残滓を山間に廃棄し、草原を破壊し、遙か昔から続いていた大自然は変わり果てていた。偉大なモンゴルの文明も歴史も残滓により暗黒の地底に押し込められた。それはまさに永遠に回復できない災禍だろう。
もし、中国のリベラル派までこの壊滅的な状況から目を背け、反省せず、改革に着手しなければ、将来、中国を真に民主化したしたとしても、民族的な抑圧は存在し続けるだろう。漢人は民主的な投票では圧倒的多数であり、民主的な手続きを通して少数民族が先祖代々暮らしてきた故郷を占拠して略奪し続けるだろう。阻止しようとする者は、誰でもショービニズムに呑み込まれて消えるだろう。
それ故、楊海英教授の著書の中国語(漢語)版が、漢人が自らの歴史的な責任を自覚し、また未来の責任も考えるようになるきっかけとなることを希望する。
このようなわけで、楊海英教授の大著を翻訳した劉英伯氏にとりわけ感謝する。八十歳の高齢にもかかわらず、老年期の光輝を本書に捧げていただいた。劉氏ご自身、文革の迫害で九死に一生を得たが、「我々漢人は本当にモンゴル人に申し訳ない。この負債は返さねばならない」という痛切な思いで、娘の劉燕子氏とともに翻訳された。その真摯で誠実な姿勢は、我々に問いかけている。
二〇一四年八月二九日 北京
付記:『墓標なき草原』漢語版は、八旗文化出版社(台北)より、十一月出版の予定である。
*[1]中国人は専ら漢人を指しているが、モンゴル人、チベット人、ウイグル人なども中国に含まれていることから、中国人=漢人ではない。他方、それらは「中国人ではない。国際政治に翻弄されて、仕方なく中国籍を選択させられた」という見解もある(楊海英『狂暴国家中国の正体』扶桑社、二〇一四年、一七頁。中国の民族問題は極めて複雑で深刻である。
*[2]災禍とは言え、その残忍非道は想像を絶し、「殺劫」と呼ぶべきである。ツェリン・オーセルは中国共産党のもたらした「革命(サルジェ)」は凄まじい「殺劫(シャーチエ)」であると指摘している(藤野彰、劉燕子訳『殺劫-チベットの文化大革命-』集広舎、二〇〇九年、序)。
*[3]中華人民共和国成立後、初めての民族自治区(省レベルの一級行政区)として新疆ウイグル自治区が一九五五年にできたが、「民族自治」と裏腹に、前年に正式発足した新疆生産建設兵団(屯田兵)の先導で漢人の大量移民に拍車がかかり、二〇一四年には二千万の総人口でウイグル人が九百万(四五%)、漢人が七百八十万(三九%)、他はカザフ人など少数民族という構成になっている。
*[4]八年前の二〇〇六年現在、統計上では、総人口二三八六万人で、漢人は一七八〇万(七九%)となり、モンゴル人は四〇四万(十七%)でしかなくなって、しかも周辺の追いやられていた。