大ハン(君主)の国を目指そう──。13世紀以来、多くのヨーロッパの探検家を東方へと駆り立てたロマンの1つはモンゴル帝国の発祥地を旅することだった。マルコ・ポーロやクリストファー・コロンブスはそうした偉大な冒険家たちの代表だ。
当時、中国はモンゴル帝国の4分家の1つ。チンギス・ハンの孫フビライ・ハンが礎を定めた元朝だった。元が滅び、幾多の星霜が過ぎし今日においても、モンゴル高原を一目見ようとするツアーは相変わらず人気を博している。そうしたなか、7月10日に旅行を楽しんでいた外国人20人が中国・内モンゴル自治区西部のオルドスで拘束された。歴史愛好家の夢に水を差す事件となった。
拘束された外国人はイギリス人9人と南アフリカ人10人、インド人1人。いわばイギリス連邦の構成員から成るツアーだった。一行は慈善団体のメンバーで、香港から上陸して47日間にわたって中国を回る予定だったが、オルドスにある「チンギス・ハン陵」を見学しようとしていた矢先に逮捕された。
「ホテルの部屋でテロ扇動のビデオを見ていた」容疑というが、実際に彼らが見ていたのはモンゴル帝国の歴史を紹介した映像。歴史を予習した上で遺跡を見学しようとしていただけだった。
内モンゴルでは以前から治安当局が外国人の動向に目を光らせてきたが、この逮捕劇は習近平(シー・チンピン)政権における対外警戒心の過剰さをあらわにした。特に今回、中国を過度に神経質にさせたのはチンギス・ハン陵の存在だ。
■大ハンの子孫か下僕か?
陵(墓)といっても、東ヨーロッパまで軍を進め、モンゴルとユーラシアの遊牧民族にとって英雄とあがめられている男の遺骨はそこにない。「神聖な遺品類」、すなわちチンギス・ハン本人が使用していたとされる馬具と弓矢、それに妃たちの遺品がこの地で祭られている。
モンゴル帝国歴代の大ハンは必ず「チンギス・ハンの御霊前」たる陵で即位式に臨んできたし、地元では多くのモンゴル人が13世紀から今日まで「大ハンの儀礼」を維持してきた。何百年間にわたって「聖なるチンギス・ハンの身辺に付き添ってきた」という自負から、モンゴルナショナリズムが格段に高い場所だ。
1911年にモンゴル高原ウルガ(現ウランバートル)の政治家たちが清朝に対してモンゴル国独立を宣言。その際に、内モンゴルに残されたオルドスのチンギス・ハン陵をモンゴル国に移転させて新生国家のシンボルにしようとした。清朝を倒した中華民国は内モンゴルのモンゴル人を支配下に留め置くために軍隊を派遣して遺品類を差し押さえた。
その後、中国大陸に進出した日本軍は遺品類の精神的価値に気付き、39年にチンギス・ハン陵を自らの支配領域に動かそうとする。日本軍の行動にモンゴル人も協力する姿勢を見せたので、中華民国は日中戦争全体に影響を与えかねないと危惧。チンギス・ハン陵をオルドスからはるか離れた甘粛省の奥地に移して隠した。
日中戦争後、国共内戦に敗れた蒋介石総統がチンギス・ハンの遺品と共に台湾に渡ろうとしたところ、中国共産党に横取りされてしまう。諸民族を「解放」した共産党政権は遅々として神聖な遺品をその子孫たちに返そうとしなかった。54年になって、チンギス・ハン陵はようやく中国人からオルドスのモンゴル人の元に帰還できた。
中国政府は「チンギス・ハンはヨーロッパまで遠征した唯一の中国人」「中華民族の偉大な英雄」と喧伝して、統治下のモンゴル人を懐柔しようとしてきた。かつて魯迅は「チンギス・ハンが大帝国を建立した頃、われわれは彼の下僕だった事実をどう解釈するのか」と中国人の妄想を諭そうとしたのだが。
チンギス・ハンが誰にとって英雄なのかはともかく、彼に憧れて訪れた外国人観光客の夢を打ち破る政治的な行為はあまりに悲しい。
[2015.8. 4号掲載]
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150730-00154152-newsweek-int