SMHRIC |
2016年10月25日 |
ニューヨーク |
南モンゴル、民族の自由の闘士、人権擁護者、作家のゴブロード・ホーチンフー女史が2016年10月25日朝、通遼市で死去した。62歳だった。
ホーチンフー(高玉蓮)は若い頃より中国植民地主義者への反対運動に積極的に参加し、長年闘争の最前線で闘ってきただけでなく、生涯、南モンゴルの教育に携わり、多くのモンゴル人教師たちと協力してモンゴル語で授業を行う権利を獲得するため不屈の闘いを続けた。
中国政府によって発禁になった著作により、多くの若者の民族意識を呼び覚ました。
ホーチンフーは1981年のモンゴル人学生の反対運動に積極的に参加しただけでなく、南モンゴル民主連盟のメンバーであり、有名な1981年の学生運動時の「28人」の一人でもある。民族の自由のための闘争の象徴であるハダ氏と同時期に逮捕・勾留された。若い頃から癌を患っていたが、強い精神力でそれらを乗り越え、著述と活動を通してモンゴル人を啓蒙、覚醒する活動をひと時たりとも途切れさせることはなかった。
1954年11月18日、ダルハン・ホショー、現在のホルチン・ジューン・ガリン・ホイト・ホショー(科尔沁左翼后旗)、オスト・ソム(現在のバヤンタル・バルガス内)、ナリン・ホショーの家に生まれた。1982年、内モンゴル民族大学モンゴル言語文学専攻科を卒業後、ボー・ルンシャン(宝龍山)モンゴル中高一貫校(1982~1983)やナイマン・ホショー(奈曼旗)モンゴル中高一貫校(1983~1988)で教鞭を執り、1988~2003年、通遼市教育研究室で研究員として勤務、4年間はモンゴル課副主任を務めた。
米国に拠点をもつ人権ウォッチャーのヘルマン・ハメット賞を受賞したホーチンフーは『チョローン・ジュルヘテー・ハイルス(石の心臓のある楡の木)』『チョローニー・ウチル(石の主張)』『アヤン(旅)』などの著作を通じて、中国植民地支配下で出版・思想の自由を奪われた南モンゴルのモンゴル人の頭に栄養を、心に活力を供給してきた。
中国の厳しい体制の鉄壁の隙間からインターネットのぼんやりした光が差し込み始めると、人間らしく誇りをもって暮らす知恵を青少年に伝えるため、「モンゴル・ゲル・ホルボーロル(モンゴル・ゲル通信)」「ノタグ(故郷)」「エヘ・オロン(祖国)」など影響力のあるウェブサイトの管理人として活動し、自由のための闘いの支援と訓練のための研修を自ら実施していた。
南モンゴルで確立した中国の植民地支配を打倒し、独立国を樹立したいという民衆の望みをはっきりと宣言し、その実現のため恐れず闘ったために彼女は数えきれないほど逮捕・拘束・軟禁された。
病気治療を続けながら、死ぬ前に一度でいいから息子の頭に口づけしたいというホーチンフーのたった一つの望みを非人道的な中国の権力者が認めなかったことは言うまでもなく、最期まで彼女を監視下に置いた。
米国のあるジャーナリストのお悔やみ状には「中国の独裁体制下では自由を享受することができませんでしたが、あまたは今、弾圧・猜疑・監視のいずれからも完全に解放されたという意味で本当の自由を手に入れたのです。あなたの清き魂が永遠に自由でありますように!」と書かれていた。
弾圧に口をつぐんだ何百万という南モンゴルのモンゴル人の口となり、自由のための闘いの永遠の灯火を暗闇で消してしまうことなく、声を上げ続けた数少ない愛国者の一人だったホーチンフー先生、祖国と私たちは先生のことを決して忘れることはありませんよ!
心身の厳しい「試験」を一般人にはない男勝りの勇猛さで乗り越えたホーチンフーの息子チェールとその家族、生き地獄をいっしょに乗り越えたホーチンフーの親戚の皆さんに深いお悔やみを申し上げると共に敬意を表したいと思います。
2016年10月25日
南モンゴル人権情報センター(ニューヨーク)
(原文)
http://www/smhric.org/uum_223.htm