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2006.6.17
ボリヤド(ブリヤート)・モンゴル自治消滅の危機
オチルバト・バトバヤル MD、MSc(公衆衛生学)(ロンドン大学)
ロシアのプーチン大統領は、4月5日クレムリン(モンゴル語で「ヘレム」と呼びたいものだが)で、大統領府長官ウラディスラフ・スルコフ、在シベリア・ロシア大統領全権代表アナトリー・クワシニン、イルクーツク州知事アレクサンドル・チシャニン、議長ウィクトル・クルグロフ、ウスチ・オルド・ボリヤド管区代表ワレリー・マレーフ、議長イリナ・モロホエワらと面談した。彼らは、エルフー(イルクーツク)州とオスト・オルド・ボリヤド自治管区の合併について意見交換して、住民投票の実施を決定した。これは、大統領が自らの勢力を強化するため2002年から段階的に進めてきた施策の一部である。大統領は、ロシア連邦を構成する自治国や管区、地方の指導者を自ら任命できるようになったため、連邦を構成する国や管区の住民は自らの指導者を選ぶ権利を失うことになった。そして、プーチンはロシア連邦を構成する89の地域を力ずくで合併させる政策をとっているが、大統領が何をしようが関係ないと放置することができなくなり始めたようである。
歴史をひも解くと、満洲(後に清を建国)が内モンゴルを占領し、ガルダン・ボショクト・ハーンがハルハ地方(現在のモンゴル国)を攻撃していた時、満洲、オイラド(オイラート)、ハルハのいずれに付き従えばいいのか路頭に迷ったボリヤド人は、最終的にロシア人によって自己防衛することを望んだ。残念ながら、ロシア人は遅れて来ながら我が物顔に振る舞い、ボリヤドにコサックやロシア人を移住させて入植地をつくって占領した歴史がある。ボリヤド・モンゴル人は、何度も蜂起し反対闘争を繰り広げたが鎮圧されてしまった。1921年にはウンゲルンがボリヤド・モンゴルを統一して「汎モンゴル国」を建国しようとしたが、これも失敗した。その後、ボリヤドには汎モンゴル主義が広がったが成功せず、1923年ボリヤド・モンゴル自治共和国が建国されるに至る。1937年スターリンがボリヤド・モンゴルをボリヤド・モンゴル自治共和国、アガ・ボリヤド管区、オスト・オルド管区の3つに分割し、地下資源が豊富な現在のエルフーとチタ州を建国した。さらに1958年には「ボリヤド・モンゴル」という名称から「モンゴル」を削除した。こうして、ロシアが中国側にパイプラインを敷設して天然ガスと石油を供給しようとしていた土地は、ボリヤド領でなくなった。間もなく敷設が始まるパイプラインの一部はバイカル湖から500メートルしか離れておらず、地震その他の自然災害が起こった場合バイカル湖に悪影響が出るため、ロシアでは多くの反対がある。この建設が確定した後、大統領は上記の会談において「オスト・オルド・ボリヤド管区はロシアの最貧地域に含まれている」と注意喚起し「エルフー州と合併することはオスト・オルドの貧しい住民たちにとって大きな利益となる」と述べた。オスト・オルドは、面積2万2千平方キロ、人口13万5千人で、その大部分はボリヤド人である。アガ・ボリヤド管区もまもなくチタ州に併合される。本当の意味で地域統合すると言うなら、3つに分割したボリヤドを再統合してもよさそうなものである。ロシア人の州と統合しようと奔走するのは一体何のためであろうか。「夫婦どころか、頭と顎が離ればなれになってしまう」という喩えのように、ロシア連邦が崩壊する時まで自治を保って独立する日は、私たちボリヤド人が生きている間でなくとも、将来きっと来るであろう。そのため自治は絶対に失ってはならないのである。1945年、内モンゴルはアル・モンゴル(現在のモンゴル国)と統一するチャンスがあったが、300年前に満洲と交わした条約が障害になった。このことは、歴史は繰り返すという例である。
プーチンは上のような政策を段階的に実施してきた。2003年から彼は自らの右腕をオスト・オルドに派遣して説得しようとしたが、大反対に遭いうまくいかなかった。ところが、プーチンは地域の幹部を自ら任命できるようになっているので、自分の側近をオスト・オルドの幹部にし、意志を通すことができたのだ。オスト・オルドの住民やボリヤド人がこれに対してどのような意見をもっているかを知る術はまったくない。これと同じような方法で、漢人は1960年代に内モンゴルの土地を分割して甘粛、青海などの省をつくり、内モンゴル人民の自治権を犯した。
プーチンは、2005年4月住民投票をするという名の下にタイミルとエウェンキ自治管区をクラスノヤルスク州に合併し、その手法を応用しようというのである。ロシア人はアメリカ人のことを「ダブル・スタンダードだ」と言うが、チェチェンで戦争を起こし、独立国グルジアの構成員だったアブハジアと南オセチアの独立を支援し、また、モルドバ国から分割した沿ドニエストル地域の独立を提案している国なのである。
私たちモンゴル人250万の半分は子ども、残りの半分は老人、さらに、外国に20万人の若者が海外に出ているということを考えてごらんなさい。私たちがウランバートル市の煙や霧の中で、民主党、革命党、さらに「改革」「急進的改革」「健全な社会」「政府退陣」など様々な運動を起こしてバラバラになっている間に、中国、ロシア両国は、私たちから分割した兄弟たちを細切れにしている。ひとつの土地から分割、併合する方法をお互いに学んで私たちを食いものにし続けているのだ。この問題に対して、わが国政府は声を上げて意見を言うべきである。なぜなら、ウランバートルに移住したロシア人の権利についてロシア政府がわが国は話し合っているのに、元々住んでいた(移住したのではない)ボリヤド・モンゴルが自治をなくそうとしているのに発言しないでいていいのだろうか。政府が賄賂をもらうため忙しいというなら、愛国心のある学生でも誰でもロシア大使館の外でデモをしてもいいではないか。この問題に世界の注目を集め、できるかできないか結果を出すべきである。大モンゴル国の記念すべき年に、ロシア人がこのような「プレゼント」を贈ってくれているのをどう理解したらいいのか、若者たちよ。 2006.4.6
追記:この記事をコピーして多くの人に伝えて下さい。
(在英モンゴル人の『モンゴル・メデー』紙より)
http://www.tsahimurtuu.mn/show.php?table=news&id=420
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