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ハダの息子ウイルスの報告書
SMHRIC 2007年10月1日 ニューヨーク
以下は、2007年8月にハダの息子のウイルスが服役中の父親を訪問した時の報告である。中国のモンゴル人政治犯ハダは、1995年に逮捕され、1996年「南モンゴル民主連盟を組織し、国家分裂・スパイ活動を行った」罪で15年の禁固刑を言い渡された。現在、ハダはオラーンハダ(赤峰)市にある内モンゴル第四刑務所で服役中である。息子のウイルスも2002年に強盗罪で3年間刑務所に送られたことがある。
ウイルスの報告書
今年8月末、父に面会しに行きました。父に会うため9:30から11:15まで待たなければなりませんでした。父は髪全体が真っ白になり、とても痩せて小さく見えました。父は日光が全く当たらない8人部屋で生活しています。私は父のために綿入れのマットレスを持参しました。父が部屋から持ち出してきたマットレスはとても薄く不潔なものでした。刑務所は、古いマットレスを部屋から持ち出すのも新しいマットレスを持ち込むのも許可しませんでした。父によると、刑務所内では2人の刑務官に特別に監視されているそうです。父は収容施設の敷地内から出ることを許されず、ほかの服役者と話すことも禁じられています。父は特別な薬物を投与されているようだと言っていました。父が昨年購読を希望した『南方週末』や『参考消息』などの新聞は一回たりとも届いていないそうです。必要なものがあるか尋ねると、父は厚手のセーターだと答えました。文化教育課の于課長にどうして新聞を届けてくれないのか尋ねたところ、父が読みたがらないからだと答えました。私たちが送った本も父はいまだに読むことができていません。
于課長は「健康状態が思わしくないので、ハダには重労働はさせていない」と言いました。
私は刑務所の入り口で長時間待たされました。父は尿と便の失禁があると言いました。医学を専攻した友人にこれについて尋ねたところ、神経システムの混乱で起きている症状のようだと言いました。刑務所の応接室で待っていると、少年院でいっしょに服役した囚人に偶然出くわしました。彼は再び刑務所に送られていたのです。彼はなぜ私がここにいるのか尋ねました。私は「父に面会するためで、父の名はハダだ」と答えました。彼が父を知っていると思えなかったので、父が政治的理由で服役していると彼に説明しました。彼は「ああ、あの人か。毎日監視されて誰とも話すことができないんだ」。「ここの食事はどうだ」と彼に聞いてみると、「少年院の食事よりもっと悪いよ」と答えました。私は、少年院の食事がひどいのをよく知っています。父を別の刑務所に移送させるため、移転願の提出について父と話し合いましたが、それは無理だろうと父は言いました。私は、他の服役囚にできることがなぜ私たちにはできないのか尋ねました。父は「私たちが他の人と平等に扱われると思うのか」と私に尋ねました。父の言っていることは明らかです。父は煙草をやめました。不整脈が続いているそうです。第四刑務所は重罪犯用の刑務所です。服役囚のほとんどが刑期10年を超える重罪犯です。服役囚たちがいかに大きなストレスを感じているかわかるでしょう。
刑務所内ではインスタント・ラーメンなどを購入することが認められています。ところが、父はこの10年以上一度も必需品の購入を許されたことがありません。通常、服役囚と面会者はいっしょに昼食を食べることができますが、私たちは一度もいっしょに昼食を食べたことがありません。私は「大きな建物を建てていますね。次に面会に来た時には父といっしょに食事をしてもいいですか」と尋ねると、「私たちには決められない」と答えました。
母は心筋虚血症と脂肪肝にかかっています。母がなぜ面会に来ることができないか私は説明しました。私は、がんばり続ける限りきっと全てが良くなると、父を元気づけました。
少年院から釈放されて以来、私は身分証明書を所持することを許されていません。今年になって地元警察署の副署長が電話をかけてきて、私と母が自治区60周年に問題を起こさないと約束できるなら、身分証明書を発行しても良いと言ってきました。また、副署長は、中国共産党が最も恐れているのが私たちのような人間であると付け加えました。
父が私たちの住むフフホトの刑務所に移されることを願っています。
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